コラム 6月号

「友だちなんて、いらないんじゃないか?」

こんなことを言うと、すごくイヤなヤツって思われちゃうかもしれませんね。
「安田は危ないぞ、そのうち犯罪者になるんじゃないか」なんて怖がられるかも(^^;
でもときどき、そんなことを本気で考えてます。

先日、妻が「もぉ、学校の役員なんて、意味のないことやってて、めんどうばっかり。」なんてボヤいてました。
「だったら、やめちゃえば?」
「そんなことしたら、付き合う人がいなくなっちゃうし、子どものこともあるし。」
「それで付き合わなくなる人なら、付き合わなきゃいいんじゃないの? 親がダラダラ意味のないことやってるとしたら、子どもの教育にもいいことないだろうし。」

なんか、こんな会話をしていて、子どものころを思い出しちゃった。
「ドリフの番組は下品で、子どもに見せたくない。でも、見てないと、学校で友だちとの会話に加われない。」なんて。
そんなジレンマで、親は文句を言いながらも、子どもがドリフを見ることを止められない。
そんな風潮がありました。

現代だったらちょうど、ゲームや携帯になるのかな。
「ゲームを買ってやらないと、友だちの家に入り浸って、迷惑をかけちゃうし。」
そんな言い訳しながら、親は子どもにゲームを買い与えちゃうんですよね。
なんか、スジが違うような、どこかでうまくゴマカされてるような。。。

親も子どもも、友だちや人間関係が失われることを、とても恐れてるんでしょうか。
それとも、ホンネは別にあって、それをゴマカす言い訳に「友だち」が利用されてるだけなんでしょうか。

こんなふうに、ものごとのスジがおかしくなっちゃったときには、「情報断食」がオススメです。
これは、いいですよ。

1ヶ月ぐらい、携帯もパソコンもテレビも新聞もなるべく控える。
仕事や安全確認など、必要最小限の連絡に利用するだけ。
なんだか、社会から一人取り残されたような不安に襲われたりするかもしれない。
やることなくて、退屈で仕方なくなるかもしれない。
そんな「不安」や「退屈」が、じつはミソなんです。

「自分の時間」を取り戻してみると、「だいじなことだ」と信じていたことが、色あせて見えてきたり。
そんなふうに、自分の生き方とかだいじなものとかを、見つめ直してみるのもいいんじゃないかな。

ボクは子どものとき、クラスで孤立しちゃったことがあります。
それまで、学校に行くのが楽しくて、友だちとバカ騒ぎばっかりしてた。
それがある年、周りとうまくかみ合わなくなっちゃって。
ときには、学校で一言もしゃべらないまま、帰宅することもあったり。

最初は不安で寂しくて、学校での時間がつらかったけど・・・・・・。
それでも、周りと合わせられない自分がいて。
今思うと、そういう時期があってよかったなぁと思います。
その時期に、自分の「アイデンティティ」みたいなものがいちばん育ったような気がする。

自立した者同士が、互いの考えを尊重したりぶつかり合ったり。
そんなふうに友情を育むことは、すばらしいことです。
そういう仲間にめぐりあえることは、とても幸運なことです。
そういう意味で、「友だちがいる」ことは、すばらしい。

でも、自分の顔を持たない者同士が、不安や退屈を埋めあうために、つながっていないと怖くてしょうがないなら・・・・・・、そういう意味なら、「友だちなんて、いらない」んじゃないかなぁ、と思うのですが。

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