「責任追及」と「問題解決」

最近、大きな社会問題になっている「いじめ」ですが・・・
武田鉄矢という人が、「いじめる奴を説教しても変わらない。問題はいじめられる奴で、大事なのはいじめられる奴を鍛えること」と言ったとか言わないとか。
そのことに、人それぞれ賛否両論があるようで。
武田鉄矢の意図とはズレた議論になってるようにも見えますが。

まぁ、この話だけでなく、いじめ問題をみんなが考えるのはいいことだと思うんですけど・・・
どうも、問題点というか、テーマを混同してる人が多いように思ってしまいます。

「いじめられる側にも問題がある。」
「それは、いじめを最初から肯定している意見じゃないのか。そんな前提で考えるのはおかしいぞ。」
・・・みたいな。

いじめだけでなく、いろいろな問題を考えるとき、「2つの違うテーマ」があります。

1.だれに責任があるのか(カンタンに言えば、だれが悪いのか)。

2.どうしたら、問題を未然に防げるか、あるいは解決できるか。

この2つを混同して、感情論になってしまうケースが多い。
混同しなければ、もっと生産的な議論ができるんじゃないかなぁ、なんて思います。

ちょっと別の問題を例に、そうたとえば、交通事故のことを書きますね。

ボクの知り合いで、車同士の交通事故を起こした人がいました。
事故後、彼女は興奮して、ボクにこう聞いてきたんです。
「対抗の直進車がパッシングしてきたから、当然、道を譲られたと思いますよね。で、右折しようと動いたら、そのまま直進してきて、ぶつかっちゃった。安田さんは、どう思いますか? 相手が悪いに決まってますよね?」

「質問」というより、「主張」ですね(~_~;)
この話を聞いたあとで、ボクは家族にこう注意しました。
「彼女は優秀な人だし、運転もおそらく自信があるんだろう。でも、いずれまた、事故を起こすよ。「車に乗せてあげる」と言われても、絶対に乗ってはいけない。」と。
案の定、1年程度の後にまた事故を起こしました。
そして次は、うちの長女の自転車と接触事故を起こした。
さいわい、長女はまったくケガがなく、自転車が犠牲になってくれましたが。

ちなみに、彼女が最初に起こした事故は、典型的な「右直事故」のひとつ。
判例もあって、裁判になれば、間違いなく彼女が負けるハズです。
が、ボクが問題にしているのは、「彼女が正しいかどうか」ではありません。

交通事故を起こしたとき、あるいはドキッとする場面に出くわしたとき・・・
すぐに「責任の所在」を主張する人と、「未然に防ぐために、どうすればよかったか」を反省する人と、大きく2通りに分かれます。
そして前者は、「責任追及」と「問題解決」を混同しているタイプ。
事故を繰り返すリスクが、とても大きい。
このタイプが、交通事故の元凶ともいえます。

自動車学校でさんざん講習を受けたハズでしょうに、たぶん忘れちゃってるんですね。
道路交通の精神は、「ルールを守る」だけでなく、「事故を未然に防ぐための知恵」が大きなテーマになっています。
「だれが悪いのか」という問題も重要ですが、それ以上に「どうしたら事故にならないか」の方が重要ともいえます。

ちょっと脱線しちゃいましたが(^^; いじめの問題に戻ります。

「だれが悪いのか?」

そんなのは、カンタンです。
「いじめ行為」が認定された場合、「いじめた側が悪い」に決まってる。
たとえ意図的でなかろうと、それが社会的に「いじめ行為」と認識されるものなら、「いじめた側が悪い」。

いじめた側が有罪で、いじめられた側は無罪。
いくら戸締りが悪いからといって、泥棒が有罪で、被害者は無罪。
そんなのは当たり前、どんなに言葉巧みに言い訳しても、「泥棒が有罪」で「被害者は無罪」です。

一方、「いじめをなくすには、あるいはいじめが発生した場合にうまく解決するには、どうしたらいいか」。

このテーマは、関係する人たちすべてが、「どう行動し、どう改めたらいいか」と考える余地があります。
いじめる側もいじめられる側も、親も、その舞台となっている学校側や社会も、「どうしたらいいのか」と当事者意識を持って考える。
それは、問題解決する際に、当然必要とされる意識です。

だから、「いじめられる側が、いじめを未然に防ぐには、あるいは、いじめられたときにどうしたらいいか」と考えることは、まったく悪いことではありません。
いやむしろ、こういうテーマも、「いじめる側にどういう教訓や懲罰を与えるべきか」とあわせて考えるべきです。

嫁姑問題でも、職場でのいじめ問題でも、人間関係の中に発生する問題というのは、相互作用の中に生まれます。
だから、いじめられる側にも、解決をテーマに考える問題点が多数あるに決まっている。
そんなことは、言うまでもないこと。
でも、そのことを、「いじめ問題の責任は、いじめられる側にもある」という意見にすり替えちゃう人がいます。
いわゆる「詭弁を弄する」というヤツ。
まず、詭弁に惑わされない議論が、必要なんじゃないかなぁ。