コラム 11月号

先月のコラムで、「イジメ問題の解決には、断固としたリーダーシップが必要」と書きましたが、学校社会でリーダーシップを期待するのは、なかなかむずかしい。
この1ヶ月、いじめ自殺という悲惨な事件があったにもかかわらず、当のリーダーはリーダーシップどころか問題の所在まで否定する始末。
・・・・・・なんて書き出すと、「安田は学校教師が嫌いなのだろう」と思われちゃうかも。
ボクは、学校教師が嫌いなのではなくて、学校教師の置かれている環境が嫌いなんです。

もともとボクは、学校教師か研究者になろうと思ってました。
でも、物理学の研究に自分はどうものめり込めないような気がして、大学4年の時には志望が教員に傾いてた。
ところが、父にその話をすると、「学校の先生は、世間知らずでつぶしがきかない」などと批判。
当時のボクは、父と反りが合わなかったこともあって、そうやって紋切り型で批判する父に腹立たしい思いをしたものです。

でも、社会人になって考えると、その批判は当たってるし、多くの社会人もまたそう感じていることです。
教育実習に行ったときに感じた、あのまったり感。
あの環境の中で、長い年月、意欲を失わないで高みを目指し続けるのは、ものすごく難しい。
もちろん、それを実現している立派な先生もいるでしょう。
しかし、ボクを含めた大半の凡人たちは、そんなスーパーマンにはなれない。
怠け者のボクなど、簡単に大勢に飲み込まれちゃうだろう。
そう直感して、もっとシビアな、怠けたら社会から切り捨てられちゃうような環境に向かうことにしました。

学校組織のいちばん大きな問題点は、「入口社会になってしまっている」ということです。
いまの日本では、学校の先生に、とても優秀な人材が集まります。
大学時代は優等生だったり、何年も教員採用試験にチャレンジしてようやく教員の座を勝ち得たり。
でも、多くの先生は、その後はあのまったり社会にどっぷり漬かっちゃう。
そして何年かたつと、一般社会から見たら化石みたいな人が主導権を握るようになる。
「教師ってのは、けっこう忙しいんだ」「部活動なんて、ボランティア精神でやってるんだぞ」そんなアホな言い分を本気でのたまったりする連中になっちゃう。
「頭腐ってるんじゃないの?」って思うけど・・・・・・、でもたぶん、ボクだってその世界に入ってたら、そうなってたんだろうなぁって思います。

さて、「モノを腐らなくする、いちばん簡単な方法」って、何だと思いますか?

---それは、「風通しをよくすること」。

ボクはそんな思いから、27歳のとき、教室すべてにCCDカメラを設置しました。
今から17年ぐらい前で、当時は「画像も音声も収録できるCCDカメラ」はかなりの高級品。
それでも、教師たちの猛烈な反対を押し切って、授業の録画を始めました。

教師はかならず、「子供の人権がどうの」「休み時間に休めない」などと御託を並べます。
たとえば、インターネットで放映するにしても、今の技術をもってすれば、子供の人権を守る配慮は可能です。
また、一般の会社では、職場に上司や同僚の目があるのが当たり前です。
こういう御託は、言い訳にすぎない。
ホンネでは、「閉じた空間で、自分の好きにやりたい」だけなんですね。

閉じた空間の中でも、崇高な精神を維持し続ける立派な人もいる。
しかし、組織全体にそれを期待してはいけない。
閉鎖された空間は、かならず腐る。
「隠そう」とする精神構造が、腐れの始まりなんです。

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